昭和56年9月29日 教祖生誕祭 (末永信太郎)
只今、まるしょうの方が皆さんにご挨拶を申しておりました。子供ながらも、往復8時間からか、行橋から参って来ます。本当に信心のなかった間は、様々なちょっとした事が問題になっておったけれども、信心をするようになったら、何事も信心にならせて頂くようになり、ね、家庭が、まあ、円満におかげを頂いておる。最近では、そこのお神様が、もう光り輝くような神様。
隣近所から人がお参りをするようになり、人が助かるようになって参りました。私は、金光様のご信心というのは、私が本当に助かることであり、ね、その家庭が助かることであり、その家庭が、また、周囲にその助かりが広がって行くということであります。
教祖の神様がお助かりになられて、そして、今日の金光教があり、今日の合楽教会があるように、ね、私の言うなら助かりが、ここに沢山な人達が助かられるようになり、ね、もうそれこそ、世界万国津々浦々に合楽理念を広げようという若い先生方もたくさん出けて参りまして、機会があれば、もし(用されるならば?)いつでも、どういう世界の隅々にでも、布教にでも出させて頂こうというような方達がいっぱい出来るようになりました。まあ、教祖様のお助かりが私の助かりになり、私の助かりが、ここで御用を頂いておる方達の助かりに繋がって行かなければなりません。
私は、ここへ、今出ましてから、初めてここに色々お供えさせてあるのを見せて頂いたんですけれども、(もうまるを?)前に、あれはあの、額になるものが二つこう、並べてあります。あれは、一つが昨日、竹内先生が明日の敬親会の方達の福引に差し上げたい。だから、先生、何か一筆書いてくれと言うて、色紙を持って来ました。何をどういう風に書こうかと思うたら、神様から白い楽という、「白楽」と頂きました。 もちろん、白楽などというような言葉が、字引なんかを引いてもあるとは思われませんから、どういうことであろうかと思うておりました。して、今日、ここへ出ましてから見ましたら、横にまた同じ形の額の中に、ちょうどあれは、京都の(大文字?)の絵か何かじゃないでしょうか。山のこう、( )、もうそれこそ、まん円な( )のお月様が描かれておる、(言うなら?ような?)。
それを二つ並べて置いてある、それを見せて頂いて、ははあ、このことだったなと分からせて頂きました。楽ということが、様々な楽があります。まあ、私どもはそれを、最高の楽を極楽だという風に言うて来ましたけれども、極楽のもう一つ向こうに合楽という楽があるということ。
私は合楽の信心が、今、ある意味で、色々な意味で(問い直し?)されておりますけれども、その、合楽で言われるその合楽理念というのは、人間が人間らしゅう生きながら、例えばあの、茨の道を歩くとか、十字架を背負うての一生であるとか、ね、それこそ、(かんのん辛苦?)、火の行水の行をしなければ、そういう心の状態に到達でけないというのではなくて、合楽理念を紐解きますと、ね、とにかく人間がその気になれば、誰でも有り難くなれれる。誰でも自分の心が、教祖様はそれを和賀心と仰せられた。和賀心とは、平和の和と、賀は賀正の賀、と。心、和らぎ賀ぶ心、と。
おかげは和賀心にありと、まあ、喝破されました。ね、その和賀心、和らぎ賀ぶ心、それこそが満月のような心。人間には光はありません。人間には、本当は力はありません。けれども、神様に頂くものであり、神様から受けるものであります。ね。今朝からの、ここに浮羽町から今、六十ちょっと前ぐらいな婦人が参って来ました。そして、その、書いてある、もう、(詳しいとがある?)、と自分の悩みを書いてございましたが、もう、第一の悩みは主人が信用されないことでございます。信用、どうぞ主人が信用されますようなおかげを頂かせて下さいと書いてある。
そうですね、夫婦が信じ信じられるというほど、幸せなことはない。夫婦の幸せがそこにある。親子の幸せは、親が子を、子が親を信じ信じられるということにある。ね。私ども、信心させて頂く者のおかげというのは、ね、神様に信じてもらえれる私になることなんだ、と。私はそう確信しておりますから、その方に今日申しました。お父さんを信ずることが出けますように、信ずることが出けますようにと祈ったよりも、それよりも一番手っ取り早いのはね、貴女自身が主人から信じられる、子供から信じられる。信心で言うならば、神様から信じられる私になろうと精進する。
そのことが、一番早道ですよと言うて、まあ、申しました。ね。自分が主人を信じたいけども、自分が家内から信じられる。ね、主人から信じられる私になる精進。これは、自分が精進することですから、ね、主人( )。ね。けっきょく私は、自分が信じられるということは、どういう事なのか。久留米の初代石橋松次郎という先生は、その当時、筑後の生神様と言われるほどしに大徳を受けられた先生でございました。
この常持という所に、秋永金光という方がおられます。もう、一年ぐらい前に初めて参ってみえられました。ほお、あなたの名前は珍しいお名前ですねえて。秋永金光と書いてある。それが貴方、私はだいたい、子供ん時に久留米の教会にお参りしよりました。で、初代の先生から、父が、なら、爺がお参りしておりましたから、お名前を頂いた名前でございます。かねみち、金光と書いてある。( )。
おそらく石橋先生の心の中には、それこそ常持、大橋中に、ね、言うならば金光の言うなら、金光大神のお光が輝くようにという祈りであったのではなかろうか。そして私は、自分自身のこと、合楽教会のことを思うてみました。これは石橋先生の祈りが、もう、何十年も何十年も前に、ね、ここに金光大神の光が輝くようになるぞということを、神様が願いとして願っておられた願いが、今、合楽で成就して行きつつあるのではなかろうかという風に思いました。ね。
そこでね、私どもには、今申しますように、光があるとは思われませんけれども、あの、額の中にありますように、満月です。ね。心がいよいよ満月のように円満になる。それを、和賀心と言う。ところが、私どもの心はいつも半月さんであったり、三日月さんであったり、ね、たまには、それこそ暮れの闇であるというような状態であります。もう、それが人間だと言うてしまや、もうやはり、この世は苦の世だ、苦の世界だ、闇の世だということになります。ね。
ところが、教祖金光大神がおかげの受け始めと仰せられますように、金光大神、生神金光大神というのは、ここに神が生まれるということであってと仰せられる。生神とは、ここに神が生まれるということであって、その生神とは自分の心が和賀心、和らぎ賀ぶ心。どのような場合であっても、心に喜びがある。
大きな(手鞠?手毬?)に喜びという字をいっぱい書いて、転がすようなもん。どちらへ転んでも、有り難い、有り難いです。ほほお、金光様の信心っちゃ、なら、喜びさえよかけんでという訳ですけれども、なかなか、その喜びが真実、本当の喜びになって出ませんところに、信心のけいこがいるのです。
自分の心がね、それこそ暮れの闇。人間の条件、言うなら幸せの条件の全てが足ろうておられるだろう、と。ね。これは、大きなお酒屋さんの、まあ、大奥様という方でしょうか、が参ってみえました。息子さんが東京に行かれると、そのお土産は必ずダイヤモンドだそうです。もう、本当に東京に行く度にダイヤを買うて(来たの?)いっぱい溜まった。ね。お母さんの宝石が好きだから。ね。
それでも、その子供のことがね、心配で心配でたまりません。もう、とても私の一代では、もう、あの人の代になったならば、もう、とても潰してしまいよるがのちゅう風な言い方をされるんです。もう、人間の幸せの健康でもあられます、綺麗でもあられますね、お婆さんですけれども、ええ。それでもね、やはり、晩は眠らないくらいに不安だと言うのです。人間の条件というものは、健康とか物とか、金だけではないことが分かります。そこでね、私どもが日々極めて行こうとする心というのは、その和らぎ賀ぶ心を求めて、こう、おかげを頂いて参りますと、その和らぎ賀ぶ心に伴うて来るところのおかげ。
和らぎ賀ぶ心に伴うて来る金であり、物であり、健康でありということになります時にです、ね、私は本当の、今日あそこに頂いとる白楽とは、そういう意味らしいんです。混ざれていないんです、白の楽なんです。ね。そういう心を、まあ、一般では極楽という風に、まあ、申します。
けれども、合楽で言われておる信心はね、その自分の心の中に頂き続ける、持ち続ける喜びという、その喜びの心を持って人を祈る、人の助かりを祈る。ね。世の中の助かりを願う。そこに、言うならば、神の喜びがあるのです。ね。言うならば、神様と氏子とが、もう、ね、喜び合えれる世界を私は合楽の世界だと思います。相対するだけではなくて、ね、相朋友し合うようなもんです。ね。
そこに、交流が始まるのです。ね。神様の心と氏子の心が一つになる、それを最近では、天地人一如の世界と私は申しております。ね。先日、伊万里の市長であります竹内先生が、十三日会の日に参拝してみえて。それこそ、あの色紙を持って来て、まあ、市政の上に色々な問題がある。
その心掛けとして、何か一筆頂きたいと、こう言われる。で、私、神様にお願いしましたら、天と地と、そして人と、と頂きました。天と地と、そして人と、と。あれだけ熱心な御信心をなさいますから、もう、神様は言うに及ばず大切にされます。為にはね、言うならば人も大切にせよ。
言うなら、もう自分の反対派の人もあろう、悪口を言う人もあろう。けれども、それを神様の氏子として、それを大切にする。自分の好きな者だけを大切にするのじゃない。もう、人から言われ、自分の邪魔をするような人のことでも、それを祈って行くということが、天と地と、そして人と、という意味だということを(家?言え?言い?)持たせて、あの、先月もあちらへ持たせてやった事でございますけれども。
ね、天地人一如、一つの世界。合楽世界とは、そういう世界なんだ。今日はあそこに沢山、あの、すごいお供えが( )、これは、私が一年余り、こちらにお風呂が、あの、出けましたから、様々な色んな、こう、温泉と同じようないろんな、( )とか、(あんな風な温泉が出ける?)、どうも私はあんまり匂いが強すぎて、何かこう、不自然で異様な感じがするから使いませんけれども、これだけは、もう、頂き続けております。
ほれは大きな、( )ぐらいな大きな檜風呂ですけど、まあ、それこそ、檜橋ですから、風呂へ入っただけで、私と家内だけしか入りませんお風呂でした。もう、まあだ、檜の香がプンプンして、これは私、一生の、もう一つの夢でした。その夢が、まあ、叶った訳ですから、まあ、言うなら極楽でございますね。お風呂へ入ったら、皆がはあ、極楽という風に申しますように、その極楽の中に、ね、もうこれは、何とも言えん匂いが漂います。
あれは中に入ったら、もう、何か体がもう、それこそ、するする、何かこう、本当です、もう、するする、するような感じです。上がった時の気持ちがいいです。いいなあ、いいなあ、と私がいつもそれを言っておりましたら、これをお供えして下さる方が、今度あの、敬親会の時のお年寄り、あれを一つずつ差し上げたらどうでしょうかということ。
あらあ、皆さんが言うならば極楽の世界から、まいっちょ向こうの楽の世界、合楽の世界とはこういうもんだと味わられるような、それはおかげもあるから、お年寄りは喜ばれるだろうなあ、と言うて、まあ、申しましたことでございますが。
ね、私はそのただ、金があるから、物があるから、健康があるからだけではなくてです、ね、言うならば神様も喜んで下さる、自分も喜べて二つが拝み合うて行けれる妙賀の世界。抱き妙賀というのがあります、ね、(もん)に。妙賀がね、こう抱き合って行く世界。それを、合楽世界だ、それを合楽理念と、ここでは申しております。して、その合楽理念に基づく生き方。商売は合楽理念を持ってする他はない、百姓は合楽理念を持ってする他はない。ね。
もう、一切のことがです、ね、海外布教は合楽理念を持ってする他はない。ね。先日、御霊のお祭りでたくさんな御霊をここにお招きして、秋の御霊祭りがございましたが。ね。御霊の助かりは、合楽理念を持ってする他はないという御理解を頂きました。それは、んなら、そげん極楽のまいっちょ向こうのその楽な世界というのは、大変難しかろう、と。そうじゃない。
ね、誰でもが、言うならば自分の心の中には和賀心、満月のような心にならせて頂けれる手立てが、ね、見やすう見やすう説いてある。ね。火の行水の行をすることもいらん、あられぬ行をすることはいらん。金光大神が歩かれた道、ね、それを言うならば、私がマスターして、マスターというまでは行きませんけれども、おかげを頂いて今日、私自身の助かっておる様子です。
心の上に助かっておる様子が、( )に現れます。その形を皆さんが見ながら、( )そこにおきながら、言うなら合楽世界に住まわせて頂くけいこを続けております。教祖様という方は、どういうお方であったか。はじめてから、産まれつき和賀心ということではなかった。大変、信心深いお方ではあった。体がお弱かったから、いろいろ、様々な神様仏様も様々に拝まれた。それでも、やはり難儀なことが続いた。7墓を築くようなことが続いた。ね。
それは、その当時、金神流行の、今でもやはりね、例えば結婚なんかに日柄を見ましたり、ご普請をするのに(かさは?)見たり、そんなのは、やっぱ、そういうところから出て来る訳でしょうけれども。もう、それこそ実意の限りを尽くされたのにも関わらず、次々と難儀なことが起こって来る。
これに、その時分の金神様と言やあ、それこそ悪神邪神のようにも言った。知って向かえば命をとり、知らずに向かうても目をとる。知って向かえば命もとるというような、まあ、言うなら恐い神様でしたから、金神封じと言うて、金神様を蔑ろにしてしまうという手立てまでして、その金神から避けようとした。
私は、教祖の信心のその着眼点が素晴らしかったというのは、そういう悪神邪神のように言われる神様でも、命をとったり、目を与えて下さることが出けるような神様ならば、また目を下さることも、命を下さることも出来る神様に違いはない。これは、人間氏子のお粗末ご無礼が、こういう祟りなら祟りになって来たんだなと、まっ、感じられた。
そこから、その、人が恐いという金神様に向かって、ね、どうぞ向きを変えて下さい、向きを変えて下さい。それはもう、実意の限りを尽くされた。ね。そして、段々、言うならば神様がお向きを変えて下さって、いわゆる神様が回れ右をして下さった時には、それが、金神様が天地金乃神様というお姿で現れるようになられた。ね。罰というものはない、ね、罰をやる暇があんなら、おかげをやるわいと仰せられるような神様。それこそ、(じがん)溢れんばかりの神様。
神愛の言うなら権化である、愛の権化である。そういう神様に出会われる事になられたら、神様の方がほとほとと感心された。何十年も、下手すると何万年も、人間氏子の中に、お前のような人間氏子をどのくらい探したか、求めたか分からなかった。これは、釈迦にもキリストにも教えられなかった事だけれどもと、言うならば、それを教祖様にご依頼になった。人間氏子の取次助けの道がそれなんです。
ね、それが、百年も前の教えでありますから、だんだん難しゅうなって来た。それを合楽では、それこそ誰でもが分かるように、誰でもが合点が出けるように、しかも人間が人間らしゅう生きながら、ね、その修行をして行くという、合楽理念の実権をさせて頂くところに、必ず実証が生まれて来るというのが、今日の合楽のごひれいの元になっております。ね。
ご縁というものは、もう大変なことなんです。それこそ、袖すり合うも多少の縁とされ、言われるくらいですが、確かにそうです。ね。ですからね、そういう縁を受けることに、今日は、今朝から参って来たそのご婦人が、主人が信じたい、主人を信じたい。ところが、どうも主人のすること成すことに、どうも信じられない。もう、晩は眠られないぐらいに不安である。ね。
そこで、どうぞ神様にお願いをするということから、縁が生じた。そして、今日頂いて帰られたことを本当にそうだなと分かり、本当にそうだなと実権されるようになったら、ね、ご主人が助かられるだけじゃなくて、ご主人が助かられることであろう。主人を信じたいと言いよる自分自身が信じられる私にならせてもらう。ね。そして、それが段々進んで参りますと、言うなら、私どもは拝ませてもらうところの神様のお心が分かる。その神様に信じられるということ。
久留米の石橋先生が、御神徳とは神様のご信用じゃと仰せられた。神様から信用されるような私。あの世は暗黒だと言われます。いや、この世も暗黒ですね、この世は(真冬になった?)と皆が言ってますね。もう、この世は苦の世だ、苦の世界だと思っておりますね。
それはね、もう、当たり前のことだ、と。この世に(おいて?)このくらいな難儀は、もう当たり前と、こう思うとりますね。その当たり前という観念をかなぐり捨てなければいけません。そうじゃないです、この世は光のようです。ね。この世はもう、極楽、合楽の世界なんです。この世で合楽世界を心に開かせて頂いて、あの世に、言うならあの世は、これは私が知り得た霊界のことでございますけれども、あの世は暗黒です。ですから、光を持って行かなければ、行けるところじゃないです。ね。
そこで、この世だって、一つ本気で光を頂け、私どもの光はないけれども、なら、自分の心が段々、三日月さんから半月さんに、そして満月のような心にならせて頂くところから、天地の親神様の言うなら、お天道様の光がこれに反射して、それこそ昼を欺くような明るさは生まれて参ります。
人間は生身を持っておる人間でありながら、この人は神様のような人だと、言うなら教祖生神金光大神は、そういう方であったわけ。それこそ、神を欺くほどしの心の状態を和賀心と言う。その和賀心を、今日は白楽と頂いた。その白楽とは、横にある、あの満月の心を言うのである。これに足ろうて来る人間の条件の全て、幸せの条件のすべてが足ろうて来る時に、心が助かっておるその上に、金があり、物があり、健康でもあるいうようなね、おかげを受けた世界。それを、言うなら極楽世界とあります。
その極楽に住んでおると思われるような、その心で人を祈るようになる。ね。天地の親神様の願いに応える信心。そこに、神と氏子との合楽し合えれる世界がある。神様からお礼を言うてもらえれる世界がある。そういう世界は、合楽世界という風に私は説きます。ね。
皆さん、どうぞ合楽にご縁を頂いておられる皆さん。その合楽世界を目指して、あの世この世を、ね、通してのおかげになるようなおかげを頂きたい、また頂いてもらいたいと思います。どうぞ、よろしゅうお願いします。